- 2024/11/21
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無題
- NONAMEさん
- (2014/02/12 17:11)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.AC.A1.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E6.88.A6
オランダは大航海時代以来、およそ300年にわたって「東インド」と名づけた島々を植民地支配してきた(オランダ海上帝国)。しかし1941年夏のABCD包囲網以来、日本とオランダは敵対し、同年、太平洋戦争が始まるとオランダ政府は日本政府に対して宣戦布告、これに応じて日本軍は翌年末、スマトラ島とジャワ島に進攻した。オランダ領東インド軍は、3月10日に日本軍に全面降伏した。 その後日本軍は、オランダ植民地政府により軟禁されていた民族主義運動の活動家(スカルノやハッタ)を解放し、その後彼らと協力体制を取り、さらにインドネシア人を現地官吏に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁するなど、インドネシア人を差別し弾圧したオランダ人とは異なった政策を取った。
さらに1943年には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本軍政下ではあったものの、インドネシア人はこれまでのオランダ統治下では決して得ることのできなかった権限を得ることとなったが、この頃までは石油資源の安定確保を目的として東インドを直轄の軍政地域とし、インドネシア民族主義指導者の独立の要請は認めなかった。 しかし、日本の戦局が悪化してくると、1944年には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表、さらに1945年に東インドに独立準備調査会を発足させ、インドネシア民族主義指導者らに独立後の憲法を審議させた。同年、独立準備委員会が設立され、その第1回会議が開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。
1945年8月15日、ジャカルタの街に日本が連合軍に降伏したという噂が拡がっていたため、スカルノとハッタは山本茂一郎軍政監と接触して、確実な情報を得ようと務めたが徒労に終わる。そこで二人は同日14時半頃前田精海軍少将を訪ねたところ、前田は公式な情報がないという理由で回答を留保。8月16日早朝、スカルノとハッタは、無傷の日本軍と敵対してでも即時に独立宣言すべきと主張する青年グループに拉致された(レンガス・デンクロック事件)。スカルノ、ハッタおよびスバルジョは青年グループを説得し、8月17日の正午までに準備を整え独立を宣言すべく解放され、ジャカルタへ向かう。8月16日23時頃、スカルノ、ハッタらは前田精海軍少将邸に集まり、既に起草されていた憲法前文の独立宣言に関連した箇所に基いて独立宣言を起草し採択した。
8月17日10時頃、スカルノらインドネシアの民族主義者たち自身が、連合国の了解を得ることなく、スカルノの私邸に集まった約1000名の立会いを得て、インドネシア独立宣言を発表し、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立した。 独立宣言後の8月22日には人民治安団(Badan Keamanan Rakyat)が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけた。 一方、大戦に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア人の独立派への武器引渡しも厳禁とされていた。日本に引き揚げずに独立派に身を投じた元日本兵は数千人に上った。